刑法は故意犯処罰の原則(刑38条1項)をとっており、故意なくして法益を侵害した場合には、不可罰となるのが原則です。
・刑法38条1項 「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。」
しかし、同条にもあるように、特別の規定がある場合には故意なくして法益を侵害した場合にも処罰されます。その特別の規定の1つが過失犯です。過失犯処罰規定として、過失傷害罪(刑209条)、過失致死罪(刑210条)などがあります。
・刑法209条1項 「過失により人を傷害した者は、30万円以下の罰金又は科料に処する。」
・刑法210条 「過失により人を死亡させた者は、50万円以下の罰金に処する。」
それでは、いかなる場合に過失があるといえるのでしょうか。
この点につき、旧過失論といわれる立場は、結果発生を予見できたのにこれを予見しなかったこと(予見義務違反)を過失と捉えます。
例① Xは、車で一般道を時速60㎞で運転していた。この速度のまま、信号のない横断歩道を通過しようとしたが、飛び出してきたYとぶつかり、Yは死亡した。
この場合、横断歩道から人が飛び出してくることは多々あり、そこで人と衝突した場合には、その人を死に至らしめることは十分予見できたはずです。そのため、Xには過失があるといえます。
例② 上記例で、Xは細心の注意を払って時速10㎞で横断歩道を通過しようとしたが、飛び出してきたYとぶつかり、Yは負傷した。
しかし、旧過失論は、交通事故を起こした場合にはほとんどの事例で過失犯が成立してしまうとして批判されます。なぜなら、車を運転していれば、抽象的可能性ながらも、人を轢いて死傷させてしまう可能性を予見できるといえるためです。例②のようにXがいくら細心の注意を払っていたとしても、人を轢いて負傷させてしまうことをXは予見できたであろうから、Xに過失があったと評価されてしまいます(もっとも、現在の旧過失論はこの批判に対応する形で、予見可能性を限定的に捉える見解などが主張されています)。
そこで、旧過失論を批判して、新過失論という見解が現れました。
新過失論は、過失ありとするには予見義務違反に加えて結果回避義務違反も必要だと主張します。結果回避義務違反とは、結果を回避することが可能であったのに適切な措置を講じなかったことをいいます。つまり、旧過失論は「結果発生を予見できたのだから過失あり」と考えるのに対し、新過失論は「結果発生を予見できたし、結果発生を回避するのに適切な措置を講じなかったのだから過失あり」と考えます。
新過失論によると、例①でXは、横断歩道を通過する際には、車の速度を減速するなどして、飛び出してきた人を死傷させないよう注意する義務があるのに、これを怠ったので過失があります。
他方、例②のXは、確かに人が負傷する予見可能性はありますが、上記結果回避義務を果たしているので、過失はないことになります。