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[解説] 津地鎮祭事件②(政教分離の原則):最高裁昭和52年7月13日大法廷判決 

Last Updated on 2022年3月15日

Point 

1.政教分離原則は信教の自由を間接的に保障するための制度的保障である 

2.政教分離原則は、宗教とのかかわりあいをもたらす行為の目的及び効果に鑑みて、その関わり合いが日本の社会的・文化的諸条件に照らして相当とされる限度を超える場合にはこれを許さないとするものと解釈するべきである 

3.2を超えるか否かについて、行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるか否かを判断するという基準(目的効果基準)を用い、本件起工式は、20条3項における宗教活動には当たらない、とした。 

①はこちら

 

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これらの点をふまえると、国家と宗教の分離には一定の限界があるとします。そして、政教分離原則を国家制度として具現化するためには、国家が宗教と関係を持つことを前提として、それがいかなる場合に、いかなる限度で許されないかが問題となる、とします。

 

「これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。」

 
そして、政教分離原則は、国家が宗教と完全に関わらないとするものではなく、宗教とのかかわりあいをもたらす行為の目的及び効果に鑑みて、その関わり合いが日本の社会的・文化的諸条件に照らして相当とされる限度を超える場合にはこれを許さないとするものと解釈するべきである、と述べます。 

 

「右のような見地から考えると、わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。 」  

 

そうすると、宗教的活動(憲法20条3項)とは、国家と宗教のかかわり合いが相当とされる限度を超えるものに限られ、その行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである、とします。宗教的活動には宗教教育だけでなく、その目的、効果が前記のようなものである限り、宗教上の祝典、儀式、行事等も含まれるとします 。

 

「…憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動…とは、前述の政教分離原則の意義に照らしてこれをみれば、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動であるが、そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、その目的、効果が前記のようなものである限り、当然、これに含まれる。」  

 

そして、ある行為が上記の宗教的活動に当たるかどうかは、外形的側面だけでなく、当該行為を行う意図や目的、当該行為の一般人に与える効果・影響等諸般の事情を考慮して、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない、とします。 

 

「そして、この点から、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたつては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則つたものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければならない。 」  

 

また、20条2項と3項では、趣旨(2項は望まない宗教活動への参加を強制されないことを保障)等が異なるので、2項と3項では宗教行為の捉え方が異なるとします。そのため、3項に反しなくとも、2項に反するといった事態は生じうるので、上記解釈が直ちに少数者の信教の自由を侵害することにはならないとします。

 

「なお、憲法二〇条二項の規定と同条三項の規定との関係を考えるのに、両者はともに広義の信教の自由に関する規定ではあるが、二項の規定は、何人も参加することを欲しない宗教上の行為等に参加を強制されることはないという、多数者によつても奪うことのできない狭義の信教の自由を直接保障する規定であるのに対し、三項の規定は、直接には、国及びその機関が行うことのできない行為の範囲を定めて国家と宗教との分離を制度として保障し、もつて間接的に信教の自由を保障しようとする規定であつて、前述のように、後者の保障にはおのずから限界があり、そして、その限界は、社会生活上における国家と宗教とのかかわり合いの問題である以上、それを考えるうえでは、当然に一般人の見解を考慮に入れなければならないものである。右のように、両者の規定は、それぞれ目的、趣旨、保障の対象、範囲を異にするものであるから、二項の宗教上の行為等と三項の宗教的活動とのとらえ方 は、その視点を異にするものというべきであり、二項の宗教上の行為等は、必ずしもすべて三項の宗教的活動に含まれるという関係にあるものではなく、たとえ三項の宗教的活動に含まれないとされる宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、宗教的信条に反するとしてこれに参加を拒否する者に対し国家が参加を強制すれば、右の者の信教の自由を侵害し、二項に違反することとなるのはいうまでもない。それ故、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動について前記のように解したから といつて、直ちに、宗教的少数者の信教の自由を侵害するおそれが生ずることにはならないのである。」   

③はこちら

 

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