[解説] 津地鎮祭事件①(政教分離の原則):最高裁昭和52年7月13日大法廷判決 

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Point 

1.政教分離原則は信教の自由を間接的に保障するための制度的保障である 

2.政教分離原則は、宗教とのかかわりあいをもたらす行為の目的及び効果に鑑みて、その関わり合いが日本の社会的・文化的諸条件に照らして相当とされる限度を超える場合にはこれを許さないとするものと解釈するべきである 

3.2を超えるか否かについて、行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるか否かを判断するという基準(目的効果基準)を用い、本件起工式は、20条3項における宗教活動には当たらない、とした。 

目的効果基準を用いて、公金の支出を違憲とした判決はこちら(愛媛県玉串料訴訟判決) 

 

 1.事案の概要 

津市の主催する市民体育館の起工式がA神社の神職主宰の下に神式に則って行われました。その際に津市長Yは、供物料等を含めた挙式費用を市の公金から支出しました。そこで、同市会議員であったXは、この起工式は憲法20条3項により禁止された「宗教的活動」に当たるとして、費用支出が市に与えた損害の賠償を求める住民訴訟を提起しました。 

 

*第二審では本件起工式が「宗教活動」に当たるとし、それへの公金支出の違法性を認めてXの請求を認容したため、Yが上告しました。 

 

(関連条文) 

・憲法20条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」 

・憲法89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」

 

 

2.判旨と解説 

※以下は判旨と解説になりますが、まず黒枠内で判決についてまとめたものを記載し、後の「」でその部分の判決文を原文のまま記載しています。解説だけで十分理解できますが、法律の勉強のためには原文のまま理解することも大切ですので、一度原文にも目を通してみることをお勧めします。  

 

まず最高裁は、一般に政教分離原則は、国家が宗教そのものに干渉すべきではないという国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味すると述べます。

 

「…一般に、政教分離原則とは、およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかかわることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公 共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。」  

 
そして、現行憲法が政教分離規定に至った経緯を説明しています。旧憲法下では信教の自由を保障する規定はあったものの国家神道が国教的な地位を占め、それに対する信仰が強制されたり、他宗教が迫害される等の問題がありました。
 
 
そこで、新憲法では新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするために政教分離規定を設けた、とします。 

 

「もとより、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によつて異なるものがある。わが国では、過去において、大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という。)に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴つていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた等のこともあつて、旧憲法のもとにおける信教の自由の 保障は不完全なものであることを免れなかつた。しかしながら、このような事態は、第二次大戦の終了とともに一変し…昭和二一年一一月三日公布された憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。元来、わが国においては、キリスト教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教 の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。」  

 

以上の点を踏まえると、現行憲法の定める政教分離は、国家と宗教の完全な分離を理想とした規定と解すべきとします。 

 

「これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。」  

 

しかし、政教分離規定は国家と宗教を分離させることで間接的に信教の自由を保障するものであるが、国家が教育等の助成や援助をするにあたって、宗教とのかかわりあいは免れず、また、完全な分離をするとかえって不合理な事態を生じるとして(例えば、宗教関係団体に、他の一般団体と同様の援助ができない等)、国家と宗教の完全な分離は不可能に近いと指摘しています。 

 

「しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。ところが、宗教は、信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。したがつて、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないのであつて、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と 同様な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため 国が宗教団体に補助金を支出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等における教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえつて受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くことにもなりかねないのである。」  

②はこちら

 

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